虚馬アーカイブス

私「窓の外」が「江戸川番外地」というブログに書いた文章をブログに移行したものです。

管理人:「窓の外」
ホームページ「江戸川番外地」で過去に書いたテキストを移行したブログです。

「東京ゴッドファーザーズ」(今敏)

東京ゴッドファーザーズ [Blu-ray]

東京ゴッドファーザーズ [Blu-ray]

  • 発売日: 2012/11/21
  • メディア: Blu-ray

 東京という街を描くのに一番適した主人公は誰だろうか。ふとそんなことを考える。東京という街は実際雑多な街の集合体である。だから逆に「東京」そのものの印象はよくわからない。故に、東京の印象は実に多様だ。ただ、「東京」という核はある。それは、雑多な個性の下にある、ドロドロとしたカオスだ。
 だから一般人、と呼ばれる上っ面の東京を撫でているだけの人たち(筆者含む)とは違う、「東京」の素顔を垣間見る事が出来る人たちを主人公にした映画は「東京」の真実の姿を見せることが多い。

 主にヤクザ、チンピラ、水商売、不良(チーマー等も含む)、それらに関わる警察官、刑事。そして…社会の最底辺、ホームレス。東京の「底」に片足突っ込んで、または首まで浸かっている人々には東京は実に優しくない街、しかし彼らほど東京に依存している人間もまたいない。彼らにとっての居場所はそこにしかないという現実。だから彼らは存在する。

 この「東京ゴッドファーザーズ」のテーマは、「現代の東京で奇跡を描く」ことだ。しかし、東京ほど奇跡が似合わない場所もない。日本でもっとも現実感のない街(テーマパーク関連はおいておく)だからだ。  この映画の主人公がホームレス、というある種突飛に聞こえるこの設定。映画の題材にするにはこれほど不向きな題材もいない。絵的に映えない、日常はつらい、なにより事件が起きない(起きたら彼らは生きていない)。だが、こと「東京」の奇跡を描くにはこれほど「東京」の現実が描ける人々はいない。彼らは日々、東京の現実にさらされているからだ。
 今監督はそこに目を付けた・・・・のだろうと思う。アニメなら彼らを映画に出来る。俺なら、それをもっとも面白く映画に出来ると。俺だけにしか、できないエンターティメントが。
 これは、アニメーションという表現技法故に可能な、そして、天才と呼ばれるアニメ監督達でも難しい、今敏という個性の監督だから出来る、新境地と言えるエンターティメントである。

 物語の発端は、雪が降るクリスマスに、ゴミ置き場に捨てられた赤ん坊をホームレス3人が拾うところから始まる。自称・元競輪選手、元ドラッグクイーンのオカマ、家出した女子高生、という経歴、事情を抱える3人は、赤ん坊への愛情、出会った奇跡、彼らでは育てられないという「現実」から、赤ん坊の親探しを始める。
 クリスマスの「奇跡の御子」を拾った彼らだが、彼らの経済状況と生活環境による体力低下した肉体では、雪の降った東京(交通が簡単に麻痺する)を少し移動するだけでも一苦労である。故に彼らの行動が有り得ない偶然に依っている。しかし、それは奇跡の御子である赤ん坊が導き出した「偶然」という割り切りが、この作品世界の強力な核になっており、この親探しの東京巡りが偶然の出来事から出来事へと連鎖する流れとなり、やがて彼らホームレスのそれぞれの「家」探しの、ロードムービーへとなっていく。

 もう一つ、この映画が成立する上で必要な要素がある。それは東京でぬけぬけと「人情喜劇」を復活させること。今監督はこの作品の目的を「漫画的表現の導入」と書いているが、その目的はどうあれ、それが結果的に「喜劇」という形で見事に昇華されている。3人の掛け合いの面白さ、彼らそれぞれの「芝居」の面白さ、それらは実は、昔の日本映画が持ち得ていたパワーそのものなのだが、それらが「コント」に陥らない「喜劇」としての強さを身につけることになる。
 そもそも現代の東京において、「人情」などを描くのはナンセンスであり、もっとも食い合わせの悪い題材である。下町においてですら失われつつある「人情」が復権するには、社会的弱者である人間が更なる弱き者を見いだした時に発揮される状況こそが相応しい。この映画はまさに人情喜劇の為の、理想的なシチュエーションと言えるのだ。

 アニメという技法による喜劇的楽しさ、それらによって可能になったホームレスの主人公、そして彼らの最底辺に至る「人生」という身につまされるような現実。奇妙な3人のホームレスの、復活への微かな希望をこの映画は最後につなぐ。

 それこそが、小さな赤ん坊が起こした小さな奇跡だ。

 ラストより以後、彼らホームレスの3人がこれからどうなるのか。またホームレスに戻ってしまう可能性も残されているし、それぞれが人生をやり直していく「希望」も示されている。彼らのその後は観客が想像するにまかせるしかない。そこがこの映画の結末において、監督が狙ったことには違いない。
 ただ、俺はそこがこの映画のキズに思える。映画としてのフィクションとしての「嘘」を最後まで貫き通して欲しかった。最後は嘘でもいいから、大きな奇跡が見たかった。映画は「奇跡」を起こす場所だ。作品世界の現実感すらぶっとぶ様な大ネタを持ってきて初めて完結する物語のように思える。それでこそ、観客も彼らも「現実」へと帰っていける気がする。

 ただ、本作において今監督の表現の幅は大幅に拡がった。次回作に大いなる期待を持たせる作品になった事は間違いない。