虚馬アーカイブス

私「窓の外」が「江戸川番外地」というブログに書いた文章をブログに移行したものです。

管理人:「窓の外」
ホームページ「江戸川番外地」で過去に書いたテキストを移行したブログです。

「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド) Million Dollar Baby

 「自分を守れ」
 それを口癖のように言う老トレーナー、フランキーは、23年来の付き合いとなる雑用係のスクラップと、昔ながらのジム、ヒット・ピットでボクサーを育成している。そんな中でもいいボクサーは育つ。その筆頭であるウィリーは、実力は折り紙付きであったが、教え子が何かに怯えるかのようにタイトル戦を先延ばしにするフランキーにしびれを切らし、別のマネージャーへと乗り換えてしまう。そんな折、フランキーの前に現れた女性ボクサー、マギー。マギーはフランキーの指導を乞うが、昔気質のフランキーは女のボクサーを認めようとしない。だが連日ジムに通い詰めるマギーの一本気さに、やがてフランキーの心も揺り動かされ始める。
 こうして、マギーとフランキーの絆は、こうして繋がり深まっていくが、やがて、彼らは運命の瞬間に直面する

 アカデミー賞で、「アビエイター」が敵わないはずである。その底知れぬ人間洞察の深さに陶然と打たれる。題材としては、特に目新しいものではない。だがイーストウッドの演出にかかると、ずしりずしりと、重いボディーブローのように「心」に効いてくる。人間の哀しさ、美しさ、醜さ、くだらなさ。それらすべてを描き出しながらも、イーストウッドは目を逸らさずに受け止め、優しく映すだけである。皆、誰もが罪人であり、そして、すべからく悪人ではない。
 かつて、容赦なく悪を葬り去ってきたダーティ・ハリーは老境に至り、かつての己の咎も他人の罪も、すべてを引き受け、それを思いながら哀しそうに微笑んでいる。苦悩し、過去の「罪」に怯え、赦しを乞う主人公も、ホワイト・トラッシュな現実からボクシングの魅力にのめり込んでいくヒロインも、その家族も、物語の転調を生むきっかけとなる相手ボクサーにすら、監督は決して非難の眼を向けはしない。監督・イーストウッドは俯瞰するかのように、見つめ続ける。決して手を伸ばそうとはしない。だが、目を逸らしもしない。

 あなたがこの映画を見て、主人公達の行動が美しいと思ったなら、それは真実だ。美しくないと思ったならば…それも真実である。ただ、イーストウッドは提示するだけだ。必死に生きた人々のその姿を。

 美しい、という形容詞は、なにがしかの基準の中で選び取られたものを指す。生きる。死ぬ。世界において、これほど単純なルールはない。その分かりやすい2択。だが、必死に生きたものが、全力でその選択の狭間でもがき、苦しみ、そして一つの選択肢を選び取る。その葛藤こそが、この映画を真の輝きへと導かせるのだ。