虚馬アーカイブス

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「パッチギ!」(井筒和幸)

パッチギ! (特別価格版) [DVD]

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  • 発売日: 2007/04/25
  • メディア: DVD

 映画監督としてより、テレビタレント活動の方が有名になりつつある、井筒和幸の最新作。

 井筒和幸という監督は商業監督としてはせいぜい二流止まりの人だと思う。この人は洗練されたものが作れない。それは一流のエンターテイメントを目指した「ゲロッパ!」で証明してしまった。洗練されてなければ成立しえない題材なのに、出来上がった者は非常に泥臭い人情映画に成り下がってしまった。和製「ブルース・ブラザーズ」になり損ねた凡作であった。

 井筒監督というテレビタレントが出演する「こちトラ自腹じゃ!」を見ていて感じるのは、とにかく現代のハリウッド映画になじめない、ってことだけだ。筆者がハリウッド映画に抵抗感がないせい、というのもあるんだろうが、彼の場合ほとんど全否定に近い。
 なんなんだ、この親父は…と思ってきたのだが、本作を見て、分かった気がした。


 1968年の京都。東高校の空手部と、朝鮮高校の番長・アンソン(高岡蒼佑)一派は、激しく対立していた。そんな対立とはあまり関わらず、女の子にもてるという目的以外にエネルギーを使っていない主人公、東高生の康介は、アンソンの妹のキョンジャ(沢尻エリカ)に一目惚れ。彼女が奏でる美しい曲が、「イムジン河」という朝鮮半島に思いを馳せた歌だと、音楽に詳しい坂崎(オダギリジョー)に教えられる。キョンジャと親しくなりたい一心で、康介は、ギターの弾き語りで「イムジン河」を練習し、朝鮮語の独学を始める。
 キョンジャときっかけも出来、アンソンたちとも親しくなって行くが、その中で康介は在日朝鮮人の揺るがしがたい現実を知る。彼らにはビザもなく、やがては北朝鮮に送還される運命がある。彼らの置かれた状況と日本人であり続けたい自分との狭間で、揺れる康介。

 そんな中、東高と朝鮮高校の、二つの対立を決定づける出来事が起こる。


 放送禁止歌であるフォーク・クルセイダーズの「イムジン河」をフィーチャーし、京都の喧嘩を朝鮮半島分断の悲劇に見立てながら、いつか、二つになりたい。けれども決して一つになれはしない。韓国と北朝鮮。日本人と在日朝鮮人。そんな人間の愚かさ、哀しさ。
 始まりこそ、そんな背景とは一見無縁な青春群像を描いたドラマだが、やがてそのいくつもドラマが一つに収斂されていく。


 映画はとあるGSコンサート会場から始まる。俺が生まれてもいない時代の話なのでなんのことやらわからんのだが、68年当時、失神ブームというものがあったらしい。それを見事に「再現」しているのだが、それは当時のブームを映すことで時代設定的な記号を出したに過ぎない。
 ところが、それに連なる本筋の物語までも、見事に60年代感覚なんである。「~テイスト」なんてものではなく、そのもの。そう言いきっても言い過ぎとは思えないほどなのだ。60年代の京都を井筒監督はほとんど違和感なく活写してみせる。当時の時事風俗、メンタリティ、その舞台にいたるまで、緻密と言っていい再現ぶりだ。
 当然のことだけど、1960年代に撮る「60年代映画」と、2004年に撮る「60年代映画」ではその意味はまるで違う。一方はその年代の「現在」を映し出し、一方はその年代にとっての「過去」を映すからだ。
 ところが2004年に撮られた「パッチギ!」は1960年代に撮られたと言われても信じられるほど1960年代の「現在」映画なのである。それは現代感覚で撮られた60年代映画「69」とは似て非なるものだ。

 器用な人で、こういう映画を撮ろうとして出来る人はいるだろう。だが、井筒和幸はどちらかと言えば「不器用」に属する映画監督なのである。だとすれば考えられるのはただ一つ。井筒監督にとっての「現在」はいまだ60年代なのだ。1960年代の頃から2005年現在に至るまで、ほとんどメンタリティが変わっていないのだ。この頃の価値観のまま、今に至ってる。そう思うと井筒和幸という人そのものへの違和感まで氷解していく。
 彼が現代のノーテンキなハリウッド映画に対して、アメリカン・ニューシネマを引き合いに出して評価するのも決して冗談ではなく、それこそが現代を活写する唯一の方法だと「未だに」信じて疑わないからだ。

 井筒監督は当時の原点を描くことで、現代を照らし返したつもりなんだろうが、この映画は現代からはるか離れたところにある映画である。現代を活写する能力のない監督だが、過去を活写する能力だけは突出している井筒和幸だからこそ撮れた作品になったと思う。
 二流監督には二流監督の矜持ってものがある。その矜持さえ持てれば、二流でも傑作は撮れる。「パッチギ!」はそれをはからずも証明したのであった。