虚馬アーカイブス

私「窓の外」が「江戸川番外地」というブログに書いた文章をブログに移行したものです。

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「ラストサムライ」The Last Samurai(エドワード・ズウィック)

ラスト サムライ [Blu-ray]

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 この映画を見終わって、その変な感覚に動揺した。

 良い映画だった。だが、正直言ってとまどってもいた。これは本当にアメリカ映画なのか、と。

 日本映画・・・ではない。幕末から明治初期までの歴史というのは日本人にとってなじみの深いものであるから、そこの考証をばっさりと切ってしまうという発想は日本人はしない。出来ない。
 これはアメリカ人の生みだした、明治初期の日本を舞台に消えゆく侍を描いたファンタジーであることは否定しようがない。

 そう、出だしはアメリカ映画だった。南北戦争で英雄の称号を勝ち取りながら、インディアンという名の「蛮族」討伐・・・・という名の虐殺に荷担したことで、後悔と失意に打ちのめされた、一人の男。戦士としての誇りを著しく傷つけられ、さりとて普通の職に就くこともままならない。酒浸りの日々を送る彼に、かつて虐殺を指示した上官が彼に依頼をする。それは明治維新以後の日本において、反逆の徒を駆逐する軍隊を育てること。

 まさしくTHE アメリカである。

 他人の喧嘩にしゃしゃり出て、引っかき回し、逆らう「蛮族」は潰す。主人公・オルグレンに依頼した上官は、まさに「THE アメリカ」の象徴と言える。戦いを欲し、その為に日本へも赴く。誇りを傷つけられ、それでもなお戦う事を捨てられないオルグレンもまた、その一人だった。
 過去の後悔と未来の見えない未知の土地、それを忘れるために現実に向き合うオルグレン。軍隊を育てる事に微かな喜びを感じながらも、過去の後悔は常にオルグレンの脳裏から消えることはない。寄せ集めの軍隊で戦地に赴いた彼は、近代装備を施した軍隊に対して銃も持たずに、手に槍刀、鎧甲冑で突っ込んでくる変な連中との戦闘に敗れ、奮闘むなしく捕らわれる。

 「蛮族」に囚われるという屈辱、そして恐怖。だが、「蛮族」の首領、勝元は彼に興味を示し、彼を雪に閉ざされた村に拘束する。オルグレンはその村で日々を送るうちに、その「蛮族」に深い敬愛を抱くようになる。
 彼らが重視する「名誉」。かつて誇りを傷つけられた男が、「蛮族」の村で見いだした「かつての誇りと後悔を取り戻す」方法。それが最後の侍=「ラストサムライ」になることだった。

 そして主人公は、「THEアメリカ」と対決するに至る。

 ここがこの映画の奇妙な所だ。アメリカという市場において製作するということは、なによりもアメリカ人の感情移入を優先するはずなのだ。ところが、この映画、かつての日本の美徳「謹厳実直」さを称揚し、葉隠の一節「武士道とは死ぬ事と見つけたり」を実践することの美しさをこれでもかと映し出す。

 つまりアメリカ人にとって未知の民族の美徳を褒め称えている。
 これは変な感じだ。まるでビン・ラディン側に付いてしまったランボーみたいな話だからだ。9.11以前のアメリカでは考えられない映画だ。自分が感じた違和感はまさにそれだと思った。

 そしてもう一つ。
 そんな物語を見せられているうちに、ふと思ってしまったのだ。

 この映画は俺達に語りかけているのだと。

 俺達とは?
 無論、日本の観客のことだ。

 映画の終盤、明治天皇は言う。「我々が「日本人」であることを忘れてはならない。」と。これは誰に向かって言っているのだ?アメリカの観客に、じゃないだろう。日本の観客でなければ共有し得ない台詞だ。

 見終わって、これはアメリカ映画か?と思ったのはその2つの理由に依る。奇妙だ。アメリカ映画からなんでそんなメッセージを受け取らなければならないのか。サイレント侍(福本清三)の「オルグレンさん!」と叫びながら主人公を身を挺して守る場面に泣き、渡辺謙の格好良さにしびれ、小雪の抑制された美しさに感銘を受けながらも、自分が日本人でありながら、実は侍の精神から遠く離れた場所にいることを不意に指摘されたようで、非常に面食らった映画でありました。