「ラストサムライ」The Last Samurai(エドワード・ズウィック)
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2010/04/21
- メディア: Blu-ray
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この映画を見終わって、その変な感覚に動揺した。
良い映画だった。だが、正直言ってとまどってもいた。これは本当にアメリカ映画なのか、と。
日本映画・・・ではない。幕末から明治初期までの歴史というのは日本人にとってなじみの深いものであるから、そこの考証をばっさりと切ってしまうという発想は日本人はしない。出来ない。
これはアメリカ人の生みだした、明治初期の日本を舞台に消えゆく侍を描いたファンタジーであることは否定しようがない。
そう、出だしはアメリカ映画だった。南北戦争で英雄の称号を勝ち取りながら、インディアンという名の「蛮族」討伐・・・・という名の虐殺に荷担したことで、後悔と失意に打ちのめされた、一人の男。戦士としての誇りを著しく傷つけられ、さりとて普通の職に就くこともままならない。酒浸りの日々を送る彼に、かつて虐殺を指示した上官が彼に依頼をする。それは明治維新以後の日本において、反逆の徒を駆逐する軍隊を育てること。
まさしくTHE アメリカである。
他人の喧嘩にしゃしゃり出て、引っかき回し、逆らう「蛮族」は潰す。主人公・オルグレンに依頼した上官は、まさに「THE アメリカ」の象徴と言える。戦いを欲し、その為に日本へも赴く。誇りを傷つけられ、それでもなお戦う事を捨てられないオルグレンもまた、その一人だった。
過去の後悔と未来の見えない未知の土地、それを忘れるために現実に向き合うオルグレン。軍隊を育てる事に微かな喜びを感じながらも、過去の後悔は常にオルグレンの脳裏から消えることはない。寄せ集めの軍隊で戦地に赴いた彼は、近代装備を施した軍隊に対して銃も持たずに、手に槍刀、鎧甲冑で突っ込んでくる変な連中との戦闘に敗れ、奮闘むなしく捕らわれる。
「蛮族」に囚われるという屈辱、そして恐怖。だが、「蛮族」の首領、勝元は彼に興味を示し、彼を雪に閉ざされた村に拘束する。オルグレンはその村で日々を送るうちに、その「蛮族」に深い敬愛を抱くようになる。
彼らが重視する「名誉」。かつて誇りを傷つけられた男が、「蛮族」の村で見いだした「かつての誇りと後悔を取り戻す」方法。それが最後の侍=「ラストサムライ」になることだった。
そして主人公は、「THEアメリカ」と対決するに至る。
ここがこの映画の奇妙な所だ。アメリカという市場において製作するということは、なによりもアメリカ人の感情移入を優先するはずなのだ。ところが、この映画、かつての日本の美徳「謹厳実直」さを称揚し、葉隠の一節「武士道とは死ぬ事と見つけたり」を実践することの美しさをこれでもかと映し出す。
つまりアメリカ人にとって未知の民族の美徳を褒め称えている。
これは変な感じだ。まるでビン・ラディン側に付いてしまったランボーみたいな話だからだ。9.11以前のアメリカでは考えられない映画だ。自分が感じた違和感はまさにそれだと思った。
そしてもう一つ。
そんな物語を見せられているうちに、ふと思ってしまったのだ。
この映画は俺達に語りかけているのだと。
俺達とは?
無論、日本の観客のことだ。
映画の終盤、明治天皇は言う。「我々が「日本人」であることを忘れてはならない。」と。これは誰に向かって言っているのだ?アメリカの観客に、じゃないだろう。日本の観客でなければ共有し得ない台詞だ。
見終わって、これはアメリカ映画か?と思ったのはその2つの理由に依る。奇妙だ。アメリカ映画からなんでそんなメッセージを受け取らなければならないのか。サイレント侍(福本清三)の「オルグレンさん!」と叫びながら主人公を身を挺して守る場面に泣き、渡辺謙の格好良さにしびれ、小雪の抑制された美しさに感銘を受けながらも、自分が日本人でありながら、実は侍の精神から遠く離れた場所にいることを不意に指摘されたようで、非常に面食らった映画でありました。
「ファインディング・ニモ」Finding Nemo(アンドリュー・スタントン)
共同監督:リー・アンクルリッチ
ファインディング・ニモ MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
- 発売日: 2016/04/20
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この物語はシンプルだ。一人息子がさらわれ、親は必死に息子を捜し、息子は必死に親の元へ帰ろうとする。そして最後に2人は再開する。それだけの話。にも関わらず、そんな物語を面白くしてしまうことを、さも当たり前のようにこなすピクサーというスタジオの凄さを垣間見る。ことストーリーテリングに関して言えば、まさに世界随一の工房だろうと思う。
よい物語ありき。その当たり前を実践するのは難しいが、それを見事にやり続けているのがピクサー・スタジオである。
カクレクマノミのマーリンは、昔妻と多くの卵を失ったため、外海に出る事に臆病となり、たった一匹生き残った息子のニモを過保護なまでに育て常に心配している。好奇心旺盛なニモは、そんな親父がウザくなってきており、反発心からマーリンの前で無茶をして、人間のダイバーに捕まってしまう。
息子がさらわれた。そのことで必死にダイバーの乗った船を追いかけるマーリンは、船を見たというナンヨウハギのドリーと出会い、彼女と一緒に追跡の旅へ。だが彼女は覚えた先から記憶をなくしてしまう魚だったのだ・・・・。
一方、シドニーの歯医者の家の水槽に入れられたニモは、そこで多くの熱帯魚たちと出会う。その中のリーダー・ギルは水槽の中で唯一海から来た熱帯魚だった。彼らが言うには、歯医者の姪の誕生日が近づいており、毎年一匹の熱帯魚が彼女に与えられ、犠牲になっていたのだ。脱出しなければニモの命が危ない。ギルの作戦の元、熱帯魚たちの大脱走作戦が始まった。
とにかく個性的なキャラクターのつるべ打ちである。
「魚断ち」をしようとする鮫、海流という名の高速道路を旅するカメたち、おしゃべりなペリカン、餌のことしか眼中にないあほうどりなど次から次へと、よくまあ、こんなに面白いキャラクターを考えられるもんだと感心する。
だがこの映画が俄然面白くなるのは、ドリーが出てきて以降だ。このドリーの行動は読めない。なにせ記憶がなくなるので、ペラペラマーリンに話しかけてたと思ったら、突然マーリンに対して「あんた誰!?」とか言ったりするのだ。そのマーリンとドリーの掛け合いが実に面白く、唸ってしまう。
一方ニモには切実に迫った命の危機が目の前にある。
脱出しなければ死ぬ。命がけの脱出は、まさにミッション・インポッシブルな脱出作戦の面白さ。こちらにもまた唸る。シンプルな物語を豊かに語る。すごい。凄すぎる。
・・・・と褒め称えておいて、★4つなのはなんでか。
それは、結局「魚世界」のみで物語が完結してしまったから。この映画はたしかに親と子が再会する映画なんだが、ピクサーという工房の作品は皆、「異世界と人間の交わり」が基本としてある。俺はピクサー作品の中で「バグズ・ライフ」だけがもの凄く違和感があるんだけれども、これもまた「虫世界」の中で完結してしまう物語だった。
人間は魚を弱らす悪役でしかない。魚は魚世界にいるほうが幸せだ。そういう話に落ち着き、熱帯魚として水槽に飼われる(映画に登場しない)多くの魚には、救いがない。
そして、人間は物語世界から完全に切り離される。
だから、見ている間は退屈せずに練りに練られた手練手管を堪能しながら、映画が終わった後、それほど深い余韻はなかったりする。
「トイストーリー2」のおもちゃの葛藤に涙し、「モンスターズ・インク」の怪物と幼い人間の交情に目を潤ませてきたものにとって、ピクサー作品として手応えが足りない、という思いを否めなかったのはその為だと思う。
「東京ゴッドファーザーズ」(今敏)
- 発売日: 2012/11/21
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東京という街を描くのに一番適した主人公は誰だろうか。ふとそんなことを考える。東京という街は実際雑多な街の集合体である。だから逆に「東京」そのものの印象はよくわからない。故に、東京の印象は実に多様だ。ただ、「東京」という核はある。それは、雑多な個性の下にある、ドロドロとしたカオスだ。
だから一般人、と呼ばれる上っ面の東京を撫でているだけの人たち(筆者含む)とは違う、「東京」の素顔を垣間見る事が出来る人たちを主人公にした映画は「東京」の真実の姿を見せることが多い。
主にヤクザ、チンピラ、水商売、不良(チーマー等も含む)、それらに関わる警察官、刑事。そして…社会の最底辺、ホームレス。東京の「底」に片足突っ込んで、または首まで浸かっている人々には東京は実に優しくない街、しかし彼らほど東京に依存している人間もまたいない。彼らにとっての居場所はそこにしかないという現実。だから彼らは存在する。
この「東京ゴッドファーザーズ」のテーマは、「現代の東京で奇跡を描く」ことだ。しかし、東京ほど奇跡が似合わない場所もない。日本でもっとも現実感のない街(テーマパーク関連はおいておく)だからだ。 この映画の主人公がホームレス、というある種突飛に聞こえるこの設定。映画の題材にするにはこれほど不向きな題材もいない。絵的に映えない、日常はつらい、なにより事件が起きない(起きたら彼らは生きていない)。だが、こと「東京」の奇跡を描くにはこれほど「東京」の現実が描ける人々はいない。彼らは日々、東京の現実にさらされているからだ。
今監督はそこに目を付けた・・・・のだろうと思う。アニメなら彼らを映画に出来る。俺なら、それをもっとも面白く映画に出来ると。俺だけにしか、できないエンターティメントが。
これは、アニメーションという表現技法故に可能な、そして、天才と呼ばれるアニメ監督達でも難しい、今敏という個性の監督だから出来る、新境地と言えるエンターティメントである。
物語の発端は、雪が降るクリスマスに、ゴミ置き場に捨てられた赤ん坊をホームレス3人が拾うところから始まる。自称・元競輪選手、元ドラッグクイーンのオカマ、家出した女子高生、という経歴、事情を抱える3人は、赤ん坊への愛情、出会った奇跡、彼らでは育てられないという「現実」から、赤ん坊の親探しを始める。
クリスマスの「奇跡の御子」を拾った彼らだが、彼らの経済状況と生活環境による体力低下した肉体では、雪の降った東京(交通が簡単に麻痺する)を少し移動するだけでも一苦労である。故に彼らの行動が有り得ない偶然に依っている。しかし、それは奇跡の御子である赤ん坊が導き出した「偶然」という割り切りが、この作品世界の強力な核になっており、この親探しの東京巡りが偶然の出来事から出来事へと連鎖する流れとなり、やがて彼らホームレスのそれぞれの「家」探しの、ロードムービーへとなっていく。
もう一つ、この映画が成立する上で必要な要素がある。それは東京でぬけぬけと「人情喜劇」を復活させること。今監督はこの作品の目的を「漫画的表現の導入」と書いているが、その目的はどうあれ、それが結果的に「喜劇」という形で見事に昇華されている。3人の掛け合いの面白さ、彼らそれぞれの「芝居」の面白さ、それらは実は、昔の日本映画が持ち得ていたパワーそのものなのだが、それらが「コント」に陥らない「喜劇」としての強さを身につけることになる。
そもそも現代の東京において、「人情」などを描くのはナンセンスであり、もっとも食い合わせの悪い題材である。下町においてですら失われつつある「人情」が復権するには、社会的弱者である人間が更なる弱き者を見いだした時に発揮される状況こそが相応しい。この映画はまさに人情喜劇の為の、理想的なシチュエーションと言えるのだ。
アニメという技法による喜劇的楽しさ、それらによって可能になったホームレスの主人公、そして彼らの最底辺に至る「人生」という身につまされるような現実。奇妙な3人のホームレスの、復活への微かな希望をこの映画は最後につなぐ。
それこそが、小さな赤ん坊が起こした小さな奇跡だ。
ラストより以後、彼らホームレスの3人がこれからどうなるのか。またホームレスに戻ってしまう可能性も残されているし、それぞれが人生をやり直していく「希望」も示されている。彼らのその後は観客が想像するにまかせるしかない。そこがこの映画の結末において、監督が狙ったことには違いない。
ただ、俺はそこがこの映画のキズに思える。映画としてのフィクションとしての「嘘」を最後まで貫き通して欲しかった。最後は嘘でもいいから、大きな奇跡が見たかった。映画は「奇跡」を起こす場所だ。作品世界の現実感すらぶっとぶ様な大ネタを持ってきて初めて完結する物語のように思える。それでこそ、観客も彼らも「現実」へと帰っていける気がする。
ただ、本作において今監督の表現の幅は大幅に拡がった。次回作に大いなる期待を持たせる作品になった事は間違いない。
「インファナル・アフェア」(アンドリュー・ラウ&アラン・マック) 無間道
インファナル・アフェア 三部作 Blu-ray スペシャル・パック
- 発売日: 2013/04/17
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義理と人情に挟まれ、懊悩し葛藤する男のドラマ。それこそがノワール。この映画はそのかつて隆盛を誇った香港ノワール映画を復活させるべく、アジアの才能が集結し、その才能の限りを尽くした、贅を凝らした男の映画。監督に、キョンシーからノワール、CGを駆使したアクションまで幅広い経験を持つベテラン・アンドリュー・ラウと、新進監督アラン・マックが共同で担当。視覚効果にアジアを股に掛けるオーストラリア人撮影監督・クリストファー・ドイル。編集の一人にタイ出身で監督作品「the EYE」で見事な編集を見せたダニー・パンを配し、主演は、外へと流出してしまう香港映画人の中で、香港映画界を支え続けるアンディ・ラウとトニー・レオンが夢の共演を果たし、脇を傑作「ザ・ミッション」のアンソニー・ウォンが固めるなど、万全の布陣。
そんな映画がつまらないわけなどない。一流スタッフとキャストが揃ったところで面白くなるという保証が有るわけではないが、この映画は違う。話としてはよくある裏切りと情念のノワールだが、ヒリヒリとした緊張感を持続させる演出。テンションの緩急を自在に操る巧みな編集。マフィア出身の警官とマフィアに潜入した警察官、その「陰」と「陽」の感覚が行きつ戻りつ絡み合い、その立場に苦しむ二人の男を見事に対比させる脚本も素晴らしい。まさに傑作になるために生まれてきた映画だ。
・・・・しかし、ここまで褒めあげておいて何故、★4つなのか。それは俺の中でなにか、この映画を「傑作!」と言い切れない何かがあるからだ。期待が過ぎたのかもしれないが、大きな不満が一つある。この純然たるノワールに異物が投げ込まれているせいだ。それは「女」。
この男臭いノワールに華を添えるべく、主役に関わる女性達(ケリー・チャン、エルヴァ・シャオ、サミーチェン)がそれだ。ハッキリ言う。
邪魔
。
別に女がスクリーンに映る事がダメと言ってるんじゃない。むしろ大歓迎だ。だが、このドラマにおいて女性が彼らに関わるとすれば、彼女たちには一つの義務がある。
彼女たちは身の危険にさらされなければならない
。そうでなければ、このノワールにしゃしゃり出てくる余地はない。
ところが、この映画では、この主人公2人の「無間地獄」からまるで切り離されたシャバで、主人公達と戯れている。このシーンが、インサートされるたびに、これまで積み上げてきた緊張感が「リセット」されてしまう。映画のリズムが中断される。この素晴らしい旋律のような出来が良い映画故に、この不協和音はかなり大きく響く。
おそらく、彼女たちの存在が香港において興行記録をうち立てる呼び水になったであろうことは間違いないし、女性観客を呼び込むための一つの視点として、彼女たちを配したのかもしれないが、この映画がまさしく歴史的傑作となるには、彼女たちの存在をもう少し物語に密接に絡ませて欲しかった。
だが、この映画が素晴らしい映画である事はまた疑いの余地がない。興行記録をうち立てたのが 「踊る大捜査線」だったりする我々日本に比べれば、この映画が興行記録を塗り替えた香港は遙かに作品的にも観客の質も恵まれていると言えようか。
「千年女優」(今敏)(ばれ感想です。)
- 発売日: 2014/02/21
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★★★★★★★★★★(5点満点で)
「千年女優」という映画の肝は、かつての名女優「老・千代子」ありきなのかもしれない。
今はもう引退し、地方の一軒家に隠棲する日本映画の黄金期を支えた伝説の女優。
その女優「藤原千代子」にドキュメンタリーのプロデューサーとカメラマンが、インタビューをしに屋敷に赴く。
プロデューサーはかつての千代子の大ファンであり、非常に心酔している。
お手伝いさんに部屋へ通され、待っている二人の前に、そのかつての名女優が現れる。
この「老・千代子」が実に素晴らしかった。この時点で自分は負けていたのかもしれない。
老いてはいるが枯れてはいない。
スターであったことの残滓が見て取れる、オーラ。
しかし、決して傲慢ではなく、非常に控えめな人柄。
時折少女のような笑顔を見せる。
座ったときに背筋がぴんと伸びていて、その座り方一つでこの女優の品の良さが分かる。
惚れた(早い)。
この時点からこの映画に説得力を感じていた。一人の老女優を目の前にして。
千代子という女優の人生に付き合う用意はできていたのかもしれない。
ハマる人とハマれない人との最初の分かれ道のような気がする。
さて、ちょっと閑話休題。
この映画を実写にすればいいのに・・・、という文をちらほら読む。
出来るもんならやって欲しいが、莫大な予算をかけて実写モノを再現するのは容易ではないし、しかも金をかけてこんな虚実入り交じった話がペイされるとは思えない。
その辺をクリアしたとしよう。
だが、たった一つ難点がある。
映画を見た後でこの映画が実写で撮れる可能性について考えていたときに、最大の難関が実は、この「老・千代子」の存在のように思えたのだ。彼女がいるから映画が締まる。
「少女・千代子」「中年・千代子」あたりなら代役が見つかりそうだが、「老千代子」の様な、可愛げがあり、少女の面影を残し、しかしカリスマ性も備える。
そんな存在がいるだろうか。かなり難しいように思う。
森光子あたりか?
しかしあの人はちょっと俺の想う千代子像と重ならない。大変失礼ないい方ではあるが、気品とカリスマ性の部分がやや足りない。
そうなると・・・・思いつくのは、吉永小百合くらい。
しかし、もう少し老けてもらうのを待つしかない。
結局この物語をアニメで制作するのは、最も現実的かつ、効果的だったと結論付けたい。
話を戻します。
インタビュー開始後、早くも幻想の世界が現れ、その世界の中に社長とカメラマンが千代子を追っていく構成となる。
彼を追って女優の道に入り、「あの人」を想う気持ちから女優としての才能を覚醒させる千代子。
この幻想を生み出している事への説得力も、結局のところ、「老・千代子」の存在感に尽きる。
かつての映画と同じシーンと彼女の生き方が、絶妙にリンクする幻想編。
少女時代、一目惚れし、またいつか会おうと決めた画家志望のアナーキスト=鍵の君。彼と不本意に別れたその日から、彼を追う彼女の鍵の君を追う人生の旅路は始まる。
やや、少女・千代子の演技がアニメ的オーバーアクトで、説得力がない、という指摘があるが、話自体はあくまで「老・千代子」のインタビューなので、引退した「老女優」の演技がオーバーアクトになってしまったとしても、不思議ではない。と思う。「老女優」のインタビュー場面が時折挿入されるのも、それが「あくまでもインタビュー」上での幻想だからに他ならない。
幻想はインタビューするプロデューサーと老・千代子の「共有世界」だ。だから、千代子の記憶が曖昧な部分はすべてプロデューサーの映画的記憶で補完しているので、同じ俳優が別の役で何度も登場する。
手塚治虫のスターシステムのような、面白さだ。
そして突っ込みを最低限、入れるためにカメラマンに「ツッコミ属性」を付加させて現実感をもたらす効果を狙った。
観客は最初、彼に誘導され、そしてそこから、徐々にプロデューサーか千代子に意識を委ねていくのが正しい見方だと思う。
この幻想部分の編集は見事の一言に尽きる。
息を付かせる間もなく見事に場面転換して、観ている者の度肝を抜く。そのタイミングは素晴らしい。
映画である以上、きちんと幻想から引き戻す部分を作る。幻想モノ(デヴィッド・リンチとか)のような地に足つかない感覚がそれほどないのは、千代子は走り続けているからだ。
人生を、恋路を、女優道を。
走るという行為を一本の線にしたのは上手い。これでクライマックスに加速がつくことになる。
ところで、女優として大成していきながらも彼女は幸せには行き着かない。千代子にとって、あくまで女優は「鍵の君」に会うための「手段」に過ぎないからである。
それはこの映画で徹底されて語られているのだが、それを指摘するレビューは意外と少ない。彼女にとっては望まぬ、苦界なのである。幻想編で芸者に身をやつすシーンがあるが、まさにそれを象徴していて、深くため息をつかんばかりに感心した。
そして 映画という幻想に依って戦国時代から江戸、明治大正、そして昭和をすぎていく。
だが彼女は彼に行き着けない。
そして時代が彼女の生きた時代に追いついたときに、プロデューサーと千代子の意外な関係が明らかになる。
そこから、話はより信憑性を増す展開に変わっていく。
なぜ幻想が二人の共有世界として存在したのか。
その謎がこれですっきりと解かれる。
そしてプロデューサーが彼女の人生を狂わせた初恋の顛末の鍵を握ることになる。
さて、それ以降、彼女の人生の歩みが語られつつ、彼女の追い続けていた鍵の君への思いの丈をぶつけるようなクライマックス。
様々な「千代子」が「あの人」へ向かっていく姿を繋げる編集は圧巻!
そして、千代子は走り続けた生涯を終える。
この映画の凄いところはプロデューサーと大女優の間に「共有幻想」の成立させた点にあり、そこから吹き出す千代子の「鍵の君」への思い、女優としての人生、狂わされた人生、プロデューサーの女優の彼女への入れ込みぶりとその思い、映画の素養、知識、それらがセリフを介するのではなく、すべて画で表現しながら、見事に整合性をつけた、その手腕の見事さにある。
しかも上映時間、わずか87分!!
これをセンス・オブ・ワンダーと言わずしてなんとするんだ!!
と思っていたので、世間の冷たいレビューは非常にさみしかった。
「女優の幻想」に惑わされる二人の男の話、と思いこんでいる人がいるが、それは違う。聞き手側の思惑もちらほらと混じって、共有しているからこそ、プロデューサーの勝手な「映画への闖入」も許容されているのだ。
そこの認識が出来ないとこの映画を理解しているとは言えないだろう。
その辺、理解してくれる人がもっとたくさんいるだろう、と思っていたので、つまるつまらないを超えて凄い、ということすら理解できない人も中にはいて、愕然とした。
見りゃわかる、と思ってたんだけどなー。
さて。
いろんな人のレビューを見てきて、共通して物議を醸したものがある。 ラストの千代子のセリフである。
「だって、私、あの人を追いかけている私が好きなんだもの」
これが異様に不評だ。このセリフが世間的な評価を下げていると思うと寂しい限り。
確かに、センスオブワンダーのあとのこのセリフは無粋の極みとも思う。
だがこのセリフの意味について考えて見たときに、「今までのはすべてホラでした」というのとはちょっと違う何かを感じていたのである。自分は。
今まで取材を拒んできた彼女がなぜ、インタビューを受け、一代記を語る気になったのか。
多分、彼女は女優を引退して「鍵の君」からの呪縛から逃れた生活を送る彼女が行き着いた結論が、それだったのではあるまいか。
狂気にも似た純粋な恋に狂わされてきた人生を振り返ったとき、残ったのは女優としての過去を持つ自分しかいない。だからこそ、それをとどめおく機会を選んだのでは無いかと。
あまりに唐突で説明不足なセリフではあるが、この一言で評価を下げたくないほど、自分はこの映画が好きだ。
だって。
俺、「あの人」を追いかけている藤原千代子が好きなんだもの。
「害虫」
●少女の静かなる落とし前。
小学生の頃の元・担任教師との恋愛。
そして母の自殺未遂。
過去や家庭に傷を抱えた中学1年生の少女、サチ子。
彼女の噂話が飛び出す環境に耐えられずに学校からドロップアウト。
同じ不登校の少年タカオや、精神薄弱の中年男、キュウベエと知り合い、小さな悪事を繰り返す生活に、彼女は次第に少女らしい笑顔を取り戻す。
だが、タカオが人を殺して逃亡。キュウベエもいなくなり、彼女は学校生活へ戻っていく。
親友の夏子の存在、クラスの人気者、花山との交際など、学校生活は順調に見えたが・・・。
「ロリコンは必見の映画である」(柳下毅一郎氏「(NOT SO) MOVIE DIARY」 1月25日分)。
すげえ。
確かにロリコンは見るべきである。
そして自分の性癖の業の深さに打ちのめされるべきである。
過激な描写が出てくるわけでは決してない。
際どいシーンが多いわけでもない。
描かれるのは淡々とした、ある少女の人生のうちの数日間、狂っていく日常を追いかけた映画である。
この映画で、セリフは本当に必要最低限まで絞り込まれ、だが決して空疎はなく、映像が雄弁に語り、主人公の心情が痛いほど伝わってくる。
この映画が描いているのは、彼女の中の「事件」の「点」、彼女の「日常」の「線」、の二つに分けられる。
彼女は「点」が打たれるたびに少しづつ方向を変えていく。それは日常の延長にあるゆるやかな変化であるが、それはやがてゆっくり少しづつそれは、「運命」のラストへとゆるやかに加速していく。
彼女の運命を少しずつ変えていく者。
元・担任教師。ウザい同級生。不良仲間。親友、恋人。そして・・・
ロリコン男性。
いや、ホントに。
つか出てくる男性の7割方は「ロリコン」という極め付き。
しかも監督も
どこか倒錯したロリコンなのではないか!?
と思わせる映像で、宮崎あおいの静かな魅力を捉える。
真性ロリコンという人種の業の深さは、予想以上の底なしであった。
彼女はもはや、学校や親友、恋人、家族、
そして最愛の人さえも・・・
信じてはいない。
ほんのささいな「事件」の積み重ねが人生である。
だが、事件は起こっても日常は続く。
この映画に流れる「時間」はサチ子の人生にとっては流れていった「日常」の一部に過ぎないだろう。
あの一見非情にも見えるラスト。
だが、その後もサチ子は生き続けるのだろう。彼女の終盤の行動は人生を生き抜く強さの裏返しでもある。
クラスや学校、親友、恋人、家族、その他もろもろに背を向け、一人生き抜く覚悟を観客は目撃する。
そうこれは、13歳のハードボイルド映画なのだ。
そして何年か経った後。
なんでこういう「道」へ進んだのか問われた時、彼女は答えられるのだろうか。
彼女はこの映画の中の日常を思い出せるだろうか。
いや。
きっとこういうに違いない。
「忘れてしまったわ。」
と。
そう、多分忘れてしまうだろう。
「時間」を大切に描いて、「人生」を描く。
そういう「無意識」に少しづつ歯車が狂っていく日常を描きながら、エンターテイメントとして成立させた塩田監督の才能に驚愕すべし。
生宮崎駿はこうして拝んだー「千と千尋の神隠し」舞台挨拶in 日比谷みゆき座ルポ
「千と千尋の神隠し」の公開を前日に控えた昨日19日6時頃、銀座に降り立った窓の外。 この日のために、デジカメを用意してお・・・・く事が出来なかった(一度買いに行ったら、値段が予算を大きく超えてんだもん)ので、ばたばたとビッグカメラ新館で購入。
相変わらずの行き当たりばったり人生である。
ソニーのサイバーショット。
自分としては大奮発である。(なにげにボーナス物欲解放戦線の規模として最大であった。) 結構機能がいい割に手頃な値段だったので購入したのだが、店員に付属の電池だけでは3・4枚しか撮れませんから、充電池も買えという脅しを受け、7800円也の充電池セットと予備のメモリースティックを購入を余儀なくされる。
くそソニーめ!ALL IN ONE、とか書いて置いてよけいなもん買わせるなよ!あこぎな商売しやがって。
そんなこんなで8時頃、日比谷東宝映画街のスカラ座前に行く。
予想通り既に300人近く、並んでいる。
スカラ座の社員の人が集まっている行列に向かって言う。
「券は早朝お売りいたしますので、いま並んでいる方は一端帰っていただいて、五時頃またお越し下さい。」
「お客様が入りきらない場合、第2弾として日比谷映画でも舞台挨拶も予定しております」
行列している連中、聞きやしねえ。
そのまま並び続ける。
くそう、遅れてなるものか・・・と並ぼうとするアタクシ。
しかしふっと思いとどまる。
せっかくのデジカメを充電せずにこのまま並んだら、確かに舞台挨拶は見れるかもしれないが、写真はとれないかもしれん!!
という考えのもと、戦略的撤退!そのまま家へ戻る。
充電をし、風呂に入り、着替えて夜11時頃、家を出るアタクシ。
12時近くに銀座に到着。日比谷映画の前にも列が出来ており、その列に並ぶ。
私、ここで大きな勘違い。
これはみゆき座の行列だったのである。
説明すると、日比谷東宝映画街には上の画像の三つの東宝系映画館がある。 「千と千尋の神隠し」が本来上映されるのは、スカラ座とみゆき座のみだったのである。 さっき東宝スカラ座社員が言った、「日比谷映画での舞台挨拶」の列を「みゆき座での舞台挨拶」と混同してしまっていた。
しかし、その時点ではみゆき座での舞台挨拶は予定されていなかったのだ。
それに気づいたのは並んでから20分くらい経ってからのこと。
徹夜で行列を仕切ってらっしゃる社員の方達の説明でようやく事態を知った。
しかし・・・窓の外は残った。その理由は・・・。
美味しいから
・・・なんてことはちょっと思ったけど、無論、こっちに並んでしまった手前、今更やめられない、という変な意地もあった。
それと「面倒くさい」・・・ということもちょっと思ったが、こちらに残って傍観者に徹するのもいいかな、と思い始める。
それと、日比谷映画でやるならみゆき座でやる可能性もあるじゃん、という楽観した気分でもあったのだ。
まあ、そんなこんなで暗い中、バックライトの薄いゲームボーイアドバンスを遊ぼうと四苦八苦していた窓の外の周りで突如拍手が。
すわ!誰か来た!
と、ジャーナリストの本能が(んなわきゃーない)、カメラを手に俺を走らせた。
案の定、あるジブリの大物、鈴木敏夫ジブリ取締役兼プロデューサー、恒例となった深夜の行列偵察である。
「すごいなあ」をいつものように連発し、「最後まで頑張ってくださいねー!」などと、劇場が公式では禁止している徹夜連中を激励!「はあい」という歓声と拍手が、去っていく鈴木プロデューサーを送る。
そんな騒ぎも一段落、何事もなく夜はふけていく。
前に座っている美術系学生とおぼしき連中は、ヤクでも打っているかのようなハイテンションを維持しているため、眠れやしない。近くのコンビニで何度か買い出しをして、ペットボトル数本と食料と一緒に、カフェイン系眠気ざましを3本ほど買う。結局、それは映画上映までに、すべて消費してしまった。
頼みのGBAはプレイ出来ないし、持ってきた雑誌も飽きるほど読んでしまった長い夜がようやく明けた頃、少し動きが出てきた。
いよいよ券売の時間が迫り、あわただしく立ち始める(スカラ座&日比谷映画組の)群衆。
もののけ特番でおなじみの電通社員やら、テレビカメラ、新聞関係者もぞくぞくやってきた。
カオナシもやってきたぞ!「可愛い!」との黄色い声が飛ぶも無口なカオナシくん
その間にも、スカラ座&日比谷映画の行列は日比谷公園前まで続いているにも関わらず、一向に伸びないみゆき座組行列に楽観主義の窓の外もさすがに不安になる。徹夜が無駄になるのは、さすがにしんどいからね。
午後5時半過ぎ、スカラ座の券売所が開き、行列の前の人からスカラ座に消えていくころ、ようやくみゆき座組も起立。
30分ぐらいして、スカラ座の観客キャパはいっぱいになり、残りの群衆が日比谷映画になだれ込む間にも向こうの列はどんどん増えていく。この期に及んで、みゆき座組行列の中にみゆき座と日比谷映画を混同していた人が何人かいて、ちょっとした混乱になる。ちょっと面白い。
しかし事態は変わった!
なんと日比谷映画前にあり、次々と日比谷映画に消えていく群衆を指をくわえて見ていたみゆき座組行列にも、人が並び始めたのだ!!
やりい!
向こうの列が並びすぎてこっちに回ってきたのだ!
そしてなんと日比谷映画も完パケしてしまった!
さすが宮崎駿は集客力が違う。
そして、7時過ぎ。みゆき座も開場。
金曜初回割引システムで、なんと今日は学生・一般1300円!
前売り券を忘れていた窓の外にはありがたいことであった。
宮崎監督いつでも来い!とばかりに、確証もないのに前方に席を取る窓の外。
その後グッズ売り場へ急行!
金に物言わせて、8000円ほど散財。
上映開始が9時10分のためその間にGBAをやったり寝たり寝たり本読んで寝たりした窓の外。
その間にも客は次々入場し、ここも立ち見が出る盛況ぶりに!
同地区3館が同じ作品で満員御礼。1800名近い観客がほぼ同時にでこの作品を見ることになった。凄すぎる。
そんなこんなでトイレも済まし、最後の眠気覚ましのモカも一気に明け、万全の体制で上映に臨む!
ビィー!とおなじみのブザーがなり、まもなく上映のアナウンスが流れ、やがて館内暗転。
CMと予告編に引き続き、ようやく本編上映!!
・・・・・。
徹夜したにもかかわらず、その緩急自在の演出、美麗な美術、魅力的なキャラクター群に画面に引き寄せられ、2時間5分の上映時間、宮崎監督の巨大な掌の上で興奮し笑わされ、しんみりした満足の作品。
とだけ言っておこう。
木村弓の「いつも何度でも」を聞いて胸にせりあがる感情を抑えながら、手はいつでもカメラのスタンバイオーケー!!
いつでもきやがれ!な状態に。
(・・・・でも来なかったらどうしよう)
などという一抹の不安と共にスタッフロールを見つめる窓の外。
やがて場内が明るくなり、われんばかりの拍手がうなるように起こる!!(これはもうお義理でない心からの拍手だと信じたい)
・・・・・・
あーーーーー!
!!
来たああああ!
とりあえずカメラをすぐさま取り出し、軽い恍惚状態と共に日テレ女子アナ(名前失念)を撮る窓の外。
すかさず前方に待機していたスタッフがアタクシに近づいてきた。
「カメラ撮影禁止です]
そんなああ!!ケッチー!ケッチィイイ!ブウー!ぶー!
そんなこんなをしているうちにどよめきが起こる。横の扉から現れた白髪のひげ親父は!!
監督だー!!(壇上で異様に照れる可愛い一面をのぞかせる)
柊瑠美ちゃんだー!!(ただしコスプレなし)
内藤剛志だー!!(いかにも場違いな所へ来た、という風情w)
でも私がスタッフの方をちらっと見るとこちらを向いて目を光らせている・・・ちっ!
こうなったら隠し撮りだー!!
ああ!!
くそうピンボケだー!!
宮崎監督第一声
「来る前はいるのが(観客が)3人くらいだったらどうしようだなんて考えていたんだけれども、暑い中こんなに集まって頂いてありがとうございます」
謙遜にしては行き過ぎですが、非常に人柄が表れているコメント。
「この映画は10才に向けて云々」という良く聞くコメントが続いたので以下省略。
柊瑠美ちゃんの無難で素朴なコメント、内藤さんの監督を立てる大人なコメントを言っている間、窓の外はシャッターチャンスを狙っていた。
とう!!
内藤さん、まだ喋ってます
どうだ!!
ホムペで見ると大した違いはないように見えますけど、写真的にはこっちの方がまともに撮れているので、満足!
本当はもっと望遠を利かすつもりだったけど、仕方あるまい・・・。
3人のコメントが終わり
女子アナが
「徹夜で並んだ方もかなりいたと聞きましたけれど・・・徹夜したかた~?」
と水を向ける!
「はあい!!」(心の声)と素直に手を挙げる窓の外。
「そんな熱心なファンに対して、宮崎監督、一言お願いします。」と女子アナ。
うおーん!感激!ありがとう!名前忘れてごめんよー!(オイ
「ありがとうございます。この映画をみなさん、徹夜で作っている、と思われているかも知れないけど、徹夜はしてません。」
「経験から言って、2時までに寝れば昼型生活は維持できます。」
「ですが、それ以降になると、駄目ですね。2時半が3時になり、3時半が4時になり、5時になんないと眠れなくなる。」
すいません。6時寝が基本になってます(爆)
「みなさん、徹夜はやめましょう。(笑)」
・・・「徹夜は良くねえ。特に女性の美容にはな」
というポルコ・ロッソの台詞を彷彿とさせるおせっきょ・・・もといお言葉を観客に残し、去っていく宮崎監督一行。
感激と映画の余韻と徹夜明けの疲れを抱えながら、強い日差しの劇場の外へ向かった窓の外さんでした。
おしまい。