虚馬アーカイブス

私「窓の外」が「江戸川番外地」というブログに書いた文章をブログに移行したものです。

管理人:「窓の外」
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いま、京極夏彦を読んでいる。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

 ていうか、ここ3週間近く小説は京極夏彦にかかりきりなのである。文庫になっている2冊。いちおう「姑獲鳥の夏」は一週間くらいで読み終えたので調子にのって「魍魎の匣」に手を出した。これが長い。重い。でも面白い。どうしようもなく、根気よく付き合っている。でも終わらない。現在、京極堂が犯人を明かしはじめる辺りにいる、といえばファンの人には分かってもらえるだろうか。峠を越して現在ようやっと下り坂、といったところ。
 「姑獲鳥の夏」が当然のことながら、初めて読む京極作品なのだが、なるほど凄い。てっきり、妖怪マニア垂涎のネタを取り揃えたようなファンタジー色の強いミステリーものかと思っていたら、逆だった。むしろ、普通のミステリーより現実的かもしれない。京極作品の長さというのは妖怪やら何やらの古来より伝わる怪異と、それをおよそ相容れない論理が支配するミステリーとを同じ土俵に上げる為の前段だったのだ。自らの舞台に読者の視点をを引き上げねばならない世界設定の中、それをはるかに高いレベルで引っ張りあげる、その筆力はなるほど熱狂的なファンの獲得も納得だ。「ミステリー」に「哲学・宗教・歴史」、それに「妖怪・怪異」「当時の時事風俗」などをこれほどの物量ぶち込みながら、それを一点に収斂させるなんてことをやってのける構成力に舌を巻く。読んでいる間「うへえ・・・」と(心の中で)つぶやきながら、ページを手繰った。
 京極堂の哲学は、窓の外の哲学にやや近い部類だったので、かれのウンチクも違和感なく読めたのだが、まさかこういう作品でP・K・ディック的アプローチで妖怪を語られるとは思っていなかった。なるほど、それならたしかにこの世に不思議なことなどないよなあ、などと思ったりしたりして。

 「魍魎の匣」は「姑獲鳥~」よりさらに混沌とした事件設定が炸裂してる。正直、ここまで情報量が膨大だと、もう心は関口と同化してきている(笑)。
 読むのが遅いので、さらに自分の混乱に輪をかけて広げていたりする。この世に不思議があるとすれば、この膨大な情報量のこの事件の全体像をすでに掴んでいる、京極堂の頭の中身だ(笑)。