虚馬アーカイブス

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「理由」(大林宣彦)

理由 [DVD]

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  • 発売日: 2006/10/20
  • メディア: DVD

 人は自分の物語の中にいる。そして物語はいくつもの交差を繰り返す。だが、その男の物語に近づけた者は、ついにいなかった。その作者でさえも。

 宮部みゆきという作家の映像化は難しい。それは過去の映画化作品が証明してきた。宮部みゆきの最高傑作「模倣犯」に至っては、原作が見るも無惨に切り裂かれてしまい、今にして思えば森田芳光の罪は、「デビルマン」の那須博之と同等であろう。成功作品と言えるのは、NHKでドラマ化された時代劇シリーズやドラマ化された「R.P.G」などの小品くらいだろう。

 しかも、よりにもよって「理由」である。この作品で宮部みゆき直木賞を受賞したわけであるが、俺が思うに宮部みゆきの作品の中でもっとも異形な作品だと思う。荒川区の高層マンションで起きた一家四人殺害事件をさまざまな人間の証言から、事件そのものの貌を浮かび上がらせるという、ドキュメンタリータッチとも言える作品。大林宣彦は大胆にもその手法をそっくりそのまんま取り入れて映像化してしまった。無謀である。当然のことながら、この映画、すさまじく変だ。俳優が出てきては画面に向かって、事件の関係者として話すのだが、最初、みてるとギョッとする。なんか舞台劇かなんかのようで、それをカメラを通して見るとすごく嘘くさく見えるのである。最初、監督の気が違ったかと思ったくらい。「虚」と「実」のあまりにも明瞭な混在は、いくら意図的とはいえ、見ている側はとまどう。
 実は俺、WOWOWで放映されたこの作品(ドラマ版)を一度見ているのだが、あまりの違和感に耐えられず、視聴を放棄してそのまんまにしてしまった。映画館にかかることが決まり、いい評判が聞こえてもきたので、宮部のファンを自認する以上、見届けねばいかん、とおっかなびっくり再トライしたわけである。

 うかつだった。
 大林宣彦は本気も本気。「実のような虚」の集積によって生み出されるあらたなる「像」。宮部の自らの作家性を踏み越えた異形の作品を、大林監督のセオリーを踏み越えた異形をもって照らし返す。大林監督はそれをやった。ここまで宮部みゆきに真っ向勝負をしかけた作品を他に知らない。

 物語はミステリーの存在である一人の「ある青年」とひとつの「殺人事件」、まるで蜘蛛の糸のようにその二つにあまりにも多くの事物がからみついている。その一本一本の糸を丁寧にたぐり寄せひとつひとつの事象を引き寄せていく中で出会う、加害者、被害者、関係者。会わせて107人。その気の長くなる作業を経て集積された数多くの「物語」によって浮かび上がるのはたった一つの「孤独」。
 原作では最後に明らかになる「物語」についてあまり突っ込んだ事は描かれなかった。宮部みゆきにも「理解」できなかったのだと思う。その人物の心の有り様。それは想像だけで描くにためらわれた乾いた「世界」故に、あえて描かなかったのだと思う。(それゆえのドキュメンタリータッチだったのだ)。原作では、まるで真ん中にだけぽっかりと穴が開いたように「何もない」のだ。
 だが、ここで、大林監督はその「作業」をきっちりなぞった上で、さらにその空白を埋めようと試みる。それが「理由」という小説を映画化した大林監督の、原作に対する返答なのだろう。
 原作小説が最後の最後で目線を逸らしてしまった一人の青年を、大林宣彦はしっかと受け止める。渡辺裕之演じる刑事が嬉々として取り組んでいたジグソーパズルのように、107個のピースで構成された原作の、最後のピースは映画化されることによって埋められることとなった。

 大林宣彦監督は、一人の少年が言った問いを持って映画を締めくくる。原作でも印象的だったあの問いが、2004年に映画として再び問いかけられるのだ。90年代後半なら「否」と言えた。なら今は?
 90年代後半に書かれた原作が抱えていた「予感」が現在になって顕在化してきている、ということなのだろうか。だとしたら、完成するべきではなかった「物語」だったのかもしれないが、哀しいかな、「理由」は完成した。現代を映し出す、傑作映画として。