虚馬アーカイブス

私「窓の外」が「江戸川番外地」というブログに書いた文章をブログに移行したものです。

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「ベルヴィル・ランデブー」(シルヴァン・ショメ) Les Triplettes de Belleville

ベルヴィル・ランデブー [DVD]

ベルヴィル・ランデブー [DVD]

  • 発売日: 2007/07/18
  • メディア: DVD

 ベルヴィル。それは、フランスから見たアメリカの夢。

 かつての夢は色あせた映像となって電波によって配信される。息子夫婦がいなくなって婆一人孫一人の寂しい家にも。そしてそんな夢は、婆さんにとってちっとも重要ではない。重要なのは寂しい思いをしている孫をどうするかだ。ピアノも犬も、孫は気に入らない。彼が心の底から喜んだのは自転車代わりの三輪車だった。
 それから幾星霜。婆さんは元気だ。生き甲斐の孫は立派に育ち、今やツール・ド・フランスに参加するのだ。その自慢の孫がレース参加中にさらわれた。さらわれた孫を追って、犬と共に婆さんは大西洋を越える。そしてたどり着き、出会う。
 かつての「夢」たちに。


 第二次世界大戦後のフランスで繰り広げられる追跡劇の主人公はちんちくりんの老婆と腹のふくれた駄犬。ヒロインはやたらとひょろっとして蛙が大好物の老婆3人。台詞は極力抑えられ、造形はじつにシュール。
 それなのに、最高に楽しい。これぞアニメーション。
 フランスから海を渡れば、アメリカ大陸があるはずなのだが、着いた場所は架空の巨大都市・ベルヴィル。どこやねん!とか突っ込まないように。そういうもんなのだから仕方がない。

 摩天楼がそびえるこの街は、かつてのアメリカ文化への憧憬。唄って奏でて踊って、クライマックスはマフィアとカーチェイス。筋自体は娯楽の王道を行きながら、世界はナンセンスに満ちている。かつてのアニメーションが持っていた『いい加減さ』を持ちながら、皮肉な目線を失わない独特な語り口も魅力的だ。手書きのアニメとCGの組み合わせも見事で、その組み合わせるときのセンスが抜群。
 そして楽曲の数々のすばらしいこと。楽曲に溢れる脳天気さと黄昏れた空気感とのリアルな交差はアメリカアニメや日本のアニメには出しようもなくなったもの悲しさを感じる。それは子供にはなかなか感じ得ない、大人の感性が充ち満ちている。

 アメリカ文化に影響を受けながら、それの模倣に依らない作家性を身につけた新たな天才がいたことに驚愕する。子供アニメでは到達し得ない新たなる天才、シルヴァン・ショメ監督の次回作に期待せずにはおられない。必見の傑作。

「Mr.インクレディブル」(ブラッド・バード) The Incredibles

 かつて、夫はスーパー・ヒーローでした。世界を救い続けるとずっと思ってました。
 だが今じゃ夫はしがない窓際社員。こんなはずじゃあなかったのに。

 かつてはスーパー・レディでした。世界を救い続けるとずっと思ってました。
 だが今、妻は旦那の浮気を心配する主婦!こんなはずじゃあなかったのに。

 …って、綾小路きみまろのネタか。
 「アイアン・ジャイアント」のブラッド・バード監督がピクサーと手を組んで送り出す最新作は、そんな洒落にならない悲哀を感じるすべての男性・女性におくる子供アニメのふりした大人のエンターティメント。ヒーローの存在が許されない世界で、かつてのスーパーヒーローが栄光を取り戻そうとする物語。


 ディズニーで配給する手前、基本的なプロットは「スパイキッズ」のような体裁になっているが、ブラッド・バード監督の意識は姉弟の側ではなく、父親・母親の側に振れている。つまり子供アニメなのに両親をストーリーの主軸に据える「クレヨンしんちゃん」の原恵一に近い作風になっているが、ブラッド・バード監督の主眼はそこからさらに突き抜けて、かつてかっこ良かった父親、母親の復活に向かう。
 だからといって、子供向けアニメとしておろそかな出来映えかというと決してそんなことはなく、子供二人の見せ場もふんだんに用意されているのだが、彼らの能力は「生まれながらにしてもっているもの」=両親からの恩恵に因っているわけで、彼らが努力して手に入れたわけではない。彼らの活躍はあくまでも偉大な両親によるもの、という縛りがあるのである。
 この父性・母性への圧倒的な執着こそが、ブラッド・バード監督の作家性なのかもしれない。

 そういった保守性がありながら、それを感じさせないのがこの作品のすごいところで、映画としてもアニメとしても、ポテンシャルはおそろしく高い。Mr.インクレディブルの過去の栄光と現在の現実の描写の見事さ。親父の中年太りネタ、奥さんの異様な動きのエロティシズム、奥さんの変形や姉弟の合わせ技などの能力応用の多彩さは、見ているだけで楽しい。  スピード感は満点なのにどういう動きをしているかをきちんと把握させる絵づくりも完璧なため、見ている間は興奮の連続。

 ただ、監督の狙いからいけば、やっぱり子供たちの特殊能力は不要のように、個人的には思う。主人公が過去に与えたトラウマが元で悪の道に入ってしまった悪の親玉・シンドロームは、結局家族を危険にさらす存在というだけの理由で否定されてしまうわけだが、彼にもきちんとフォローをいれてこそ、Mr.インクレディブルは真の正義になるはずなのだ。
 Mr.インクレディブルの責任は、最終的に奴ときちんとタイマン張って 決着をつけることのはずで、それがうやむやにしたまま、家族を免罪符にして終わりっていうのはいくらなんでもシンドロームが哀れすぎる。

「ハウルの動く城」(宮崎駿)

ハウルの動く城 [Blu-ray]

ハウルの動く城 [Blu-ray]

  • 発売日: 2011/11/16
  • メディア: Blu-ray

 はじめに断っておくけど。俺は、宮崎駿に失敗作はない、と思っているし、他の監督と比較出来る領域の人ではないと思っている。それどころか、宮崎監督個々の作品自体が比較しようのない世界を屹立している以上、相対的に比べて語ることは無意味である、とする者だ。
 それは宮崎駿の前に宮崎駿はなく、宮崎駿の後に宮崎駿はいないからだ。宮崎アニメというジャンルでアニメを作れる人は、世界にただ一人、宮崎駿しかいない。そして、俺は宮崎アニメを心から愛し、それを生み出す作り手に心酔している。

 ゆえに。「ハウルの動く城」も比較しようのない傑作であると言い切る。俺にとっての問題は、「ハウルの動く城」がどう傑作であるか、ということだ。



 映画はいきなり城が登場し、あっけなくその威容をさらけ出すと、ある街の一介の帽子店で働くソフィに視点を映す。
 きなくさくなる時代の波が街にも現れ始めているとある街。奔放な母親、明るく自由闊達な妹に比べ、いまいち引っ込み思案で自分に自信が持てずにいる長女のソフィは、店を手伝う日々。ある日、妹に会いに行く途上、彼女はなぞの美青年と出会う。いやもう、宮崎作品最強のイケメンキャラ(wである。追われていた彼は不思議な力でソフィと一緒にふわりと浮き上がり、妹のいる店のベランダへと導くと、いずこへと消えてしまう。
 妹に会い、店に戻ると、突然荒れ地の魔女と名乗る魔法使いが現れ、彼女に90歳になってしまう呪いをかける。老婆になった彼女は、呪いを解くため家を出、荒れ地へと向かう。だが、そこに現れたのは、街で噂の「ハウルの動く城」だった…。



 …とまあ、物語はかように幕を開けるわけだが、物語の導入部の肝は、若い少女が古い肉体にされてしまう、という設定にある。それは、まさに宮崎駿が置かれた肉体の状況と合致する。思うように動かない肉体を描くのは、今の宮崎駿には困難ではないだろう。
 だが、宮崎駿は自らのリアルな感覚をソフィの「肉体」とシンクロして物語を進めていくうちに、彼女の「精神(こころ)」に寄り添うようになる。そして、魔法使いだけのものだったはずの「肉体の変化」がソフィ自身にも起こるようになる。まるで心が肉体を変えていくかのように。
 はじめはささやかだった変化。ソフィが元の姿に戻るのは眠る時だけ(それは宮崎駿自身も眠るときだけが精神と同じ若さに戻れるからだろう。)。だが彼女がハウルにほのかな好意を寄せるようになると、その変化の幅が大きくなる。少女と老婆の心を行きつ戻りつするたびに、ソフィの肉体も変化していく。

 この映画のすごいところは、物語も世界の出来事の意味も常に変化していくことだ。戦争の意味すら、ソフィの恋心への難関としか現れなくなる。これは、今までの宮崎映画ではあり得なかったことだ。つまり、ソフィの心と肉体は社会的な「何か」から解き放たれ、ハウルのみへと向かう。
 これは「耳をすませば」でも描ききれなかった、宮崎駿が初めて描く「身を捨つるほどの恋」ではないだろうか。「耳すま」では好きなひとのために社会的ななにかを得ようとする物語であったが、「ハウル」はその呪縛からすら乗り越えたソフィの心によって世界や戦争の意味すら歪んでいくのである。
 それはまさに宮崎監督がソフィの「精神」に感応したがゆえに起こした、この映画最大のメタモルフォーゼかもしれない。

 「紅の豚」以降、「死」に向かっていた宮崎監督の意識が、この作品では「老」を描くことで「生」の希求という方向に向かった。「世界」のあり方にこだわってきた宮崎監督が、主人公の心のみに寄り添って大きく定型から逸脱した、「紅の豚」以来の個人的映画になっていると思う。そこには「もののけ姫」で描いた「死に向かう物語」から「生を求める物語」へと飛翔した、新たな宮崎監督の境地がある。


 あとキャスティングについて。俺は非声優肯定派(ただし宮崎アニメ限定)で、毎回キャスティングに過敏な反応が出てくることに疑問がある人間なので、今回も問題ありませんでした。つーか特に素晴らしかったと思う。今度のキャストで文句が出てくるなんて信じられん。

 ハウル木村拓哉松田洋治よりものびやかな声が出せているし、宮崎映画最強のナルシストなのでもはやシンクロする。結果的にはハウルはキムタクしかあり得なかった。「美しくなければ生きている意味がない。」は爆笑した。
 ソフィーの倍賞千恵子もかつての宮崎アニメのヒロインに近い、ちょっと老成したような少女声がかえってハマる。老人になると故・初井言榮もかくや、の演技も出せる幅の広さ。しかも声に張りがあるので、精神的な若さも出せる。三輪明宏は言わずもがな(w。我修院達也もいい。そして神木隆之介くん。萌え萌え。「待たれよ」なんていう背伸び演技の段での、その最強の萌えっぷり。素晴らしい。

「インファナル・アフェア/無間序曲」(アンドリュー・ラウ/アラン・マック) 無間道II/Infernal Affairs II

 無間地獄に火を投げ入れたのは、誰だったのか。

 香港映画の総力を挙げて取り組み、そして見事成果を挙げた「インファナル・アフェア」。その第2弾は第一章から遡ること11年前。中国返還以前の香港。全ての因縁の始まりを告げる、前日譚である。
 狡知に長けてはいるが気のいいヤクザ、正義感にあふれているが手段を選ばない非情な刑事、一人の女性を愛するが故に善と悪の狭間で揺れ動く若者、呪われた家を捨てたいが故に誰よりも警官であることを望む青年。
 何故彼らは無間地獄へと足を踏み入れるに至ったか。

 第1章ではうかがい知ることができなかった意外な因縁が絡み合い、地獄の風景は違う貌を覗かせる。

 この映画が凄いのは完成するまでの過程にある。
 「私たちが当初から考えていたのは第1章と第3章『終極無間』だけで、両方の脚本を同時に執筆していました。第2章『無間序曲』の企画は、第1章の撮影中に生まれたのです。(中略)ピーター・ラム(メディアアジア・グループ会長)が、過去にさかのぼってはどうかと提案してきたのです。」(アラン・マック/プログラムのプロダクション・ノート掲載の発言より抜粋)
 つまり元々2部作で完成させるはずだったシリーズに急遽組み込まれたのがこの「無間序曲」なのである。

 だから、3年かけてじっくり作ってきた第1章の脚本とは違い、粗や不備は多々ある。だが、第一章の成功によりノリにノってるスタッフやキャストたちの熱気が、この作品のフィルムに宿っている。
 「I」の公開から半年もかけずに脚本を書き上げ、そしてわずか2ヶ月で撮影してしまう荒技にも関わらず、映画はこれほどまでに高いポテンシャルを維持している。まるで、週刊連載してる漫画家が、予想外の人気に急遽回想話を入れたら、それが物語をさらに深めた連載をリアルタイムで目の当たりにしてしまったかのようだ。
 なにより俺がこの映画が凄いと思うのは、単なる過去話ではなく、新たな因縁を描くことで「I」を更なる深化へ導こうとするその志だ。俺は非常に計算された完成度を有する第1章よりも、粗はあろうとも一気に作り上げてなお、これほどの完成度の作品に「なってしまった」「II」にこそ、このシリーズの凄さがあると思う。

 物語は、家族思いでありながら、冷徹かつ知略に溢れた若き二代目ゴッドファーザー・ハウ(フランシス・ン)の興亡を軸として、彼と敵対する警察との争いの渦中へと巻き込まれていく男女の運命を描き出す。
 前作のシンプルな構造の物語を、見事な演出と編集による緩急で緊密なテンションを持続させた前作とは違い、複雑な人物相関によるそれぞれのドラマをひとつひとつじっくり描くことで因縁を浮かび上がらせ、そして彼らを一本の幹へと飲み込んでいく。
 なんと言っても前作になくて本作にあるのは、「運命を変える女性」である。男を愛するがゆえにまわりの男を翻弄し、道を踏み外していく女。そんな業を背負った女・マリーを香港のトップ女優、カリーナ・ラウがさすがの存在感で演じ、
 そして、エリック・ツァンアンソニー・ウォンの意外な関係は、第1章に更なる悲哀を生む。

 あの香港返還の花火が、まるで地獄の開幕を告げる狼煙のようにも、シリーズの成功への祝砲にも映る、熱気を孕んだシリーズ作として素晴らしい。

「劇場版 NARUTO/大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!」(岡村天斎)他一本

 いやいやいや。決して侮っていたわけではない。なんせ、俺が大友克洋関係の劇場用アニメで一番好きな「MEMORIES」の一編「最臭兵器」において、見事に軽やかなコメディ演出を披露した監督が、当の岡村天斎監督であることを知っていたのではあるが、しかしジャンプ漫画の映画化である。ここまで面白い作品になってると誰が想像するだろうか。(ちなみに原作はジャンプで目を通した程度。テレビアニメ版は未見。)
 映画ファン必見のシリーズになる萌芽を感じる。渾身の劇場用第一作。

 まず、原作およびテレビシリーズを知らない方へ、基礎知識。
●物語世界:5つの大国(火の国・水の国・雷の国・風の国・土の国)で成り立っていて、国の軍事力を支える力として、それぞれが忍の里を有している。忍びの里には「木ノ葉隠れの里」・「霧隠れの里」・「雲隠れの里」・「砂隠れの里」・「岩隠れの里」などがある。国と里は対等の関係であり、強い忍者達がそれぞれの国の独立と安全を守っている、という設定。忍者には、上忍、中忍、下忍と身分が分かれており、ナルト、サスケ、さくらたち3人は「木の葉隠れの里」の<下忍>、彼の上司であるカカシ先生が<上忍>である。
●忍術の仕組み:忍術 にはチャクラという力が必要。チャクラとは忍が「術」を使うのに必要とするエネルギーのこと。人間の身体を構成する膨大な数の細胞一つ一つから取り出す「身体エネルギー」と、修行や経験によって蓄積した「精神エネルギー」の二種類から成り、この二つのエネルギーを練り上げ(これを「チャクラを練る」という)、術者の意思である「印を結ぶ」というプロセスを経て、忍者は「術」を発動することが出来る。(ナルトの分身の術が、「分身にみせている」のではなく本当に「分身」しているのはその力による)
 ま、以上の2点を抑えれば大丈夫でしょう。後は現代の利器が色々登場するのはファンタジーなので考証は無用、ということにしておいてください。

 映画内映画「雪姫の大冒険」シリーズをナルトたちが見ているところから、映画は始まる。席に座らずに天井から鑑賞していたナルトたちがタダ見していると勘違いした劇場スタッフと口論となり、客が怒ってナルトたちに物を投げつける大騒ぎに。スクリーンの「雪姫の大冒険」の前を、客の怒号と物が飛び交うところをスクリーンに映す、というなかなか味なカットで幕を開けるのだ。つまり、「ガキども、映画の最中は騒ぐんじゃねえ」と暗に釘をさしているのだ。…多分。
 そして、その映画内映画こそナルトたちの任務内容にリンクしている、という趣向。映画好きにとっても実に引き込まれる見事な語り口だ。彼らの任務は「雪姫の大冒険」のヒロイン・雪姫を演じる人気女優・雪絵の護衛と見張り。ワガママですぐに脱走する。そんな彼女を見張っておいて欲しい、という。だが、彼女にはある重大な秘密が…というのが、大枠の話。
 話としては「あきらめなければ、きっと道は開ける」というメッセージともども実にベタではあるが、物語を語る要素としてナルトたちの力をさりげなく見せつつ、アクションと演出できちんとストーリーを展開させる手腕は劇場用長編初挑戦とは思えぬ、熟成されたのものだ。木の葉のナルト、サスケ、さくらのプロとしての姿勢もきっちりと描けているし、なによりカカシ先生のしたたかな戦いぶりは、格の違いを見せつけるには十分だ。雪姫のキャラクターも、厭世的な性格と女優としての顔を使い分ける描写をきちんと入れることによって、説得力があるキャラになったと思う。
 忍術による攻防も実に多彩でテンポが良く、印を踏むアクションなど実に楽しい。敵の忍者達の個性がアクションによって表現されているなど、原作を知らない観客にも楽しめる娯楽映画として非常に優れた作りだ。
 他にも、映画撮影の情景のディティールが実に細かい描写、大塚周夫演じる映画監督マキノのキャラクターが実にイキイキとしてて、要所を締めたりナルトを助けるなどの端役とは思えぬ活躍を見せる辺り、映画をやる!というスタッフの気概に溢れている点が素晴らしい。予定と違う事が起こって逆に喜ぶマキノ監督のバイタリティは、昔気質の映画監督、って感じで思わずニヤリとしてしまう。天才女優なのになんで泣けないのか、などの細かい描写による伏線もきっちり入れている辺り、岡村監督のストーリー・テリングの確かさが光る。

 まあ、突っ込みどころはありすぎるくらいにある。雪の国の人間に見つかりたくないんだったら女優やるなよ、とか、雪の国の国民を押さえ込んでいた忍者3人が、他国の上忍ひとりと下忍3人でつぶされてしまうんかい、とか、大小色々。ただ、それはテレビシリーズが抱える問題点である場合もあるし、目をつぶって楽しんで頂きたい。
 脚本の穴を補ってあまりある魅力を放つ娯楽作に仕上がっていると思う。このシリーズ、化けてほしいので★ひとつ追加。

「オアシス」(イ・チャンドン)오아시스

 この映画は純愛映画なのだろうか。映画を見たあと考えていたのはそこだった。ひっかかりを憶えつつも、だが、あれはたしかに「純愛映画」だった。そこは否定できずにいた。

 ある愛の物語である。
 男は、前科三犯無職。交通事故で人を死なせた罪で刑務所に入り、出所したばっかりの男。駄目人間オーラを漂わせ、常にオドオドしながら無銭飲食を繰り返し、親戚に鼻つまみにされ、無責任に生きていることをことあるごとに説教されるが、言われたことに対して真面目に聞かないボンクラ。社会不適応者の典型と言える彼が、被害者の遺族に会いに行った先である女性と出会う。
 その女性は、脳性麻痺だった。
 どうしようもない男と出会ってしまい、(与しやすしと)目を付けられたあげく、レイプ未遂までされる彼女。だが、彼が気まぐれで言った言葉を、彼女は一人の女として忘れられずにいた。彼は言った。「かわいいよ。」と。
 どうしようもない出会いから始まったサイテー男とノーセーマヒ女という「合わせてウン重苦?」な2人の関係は、やがて互いの心の拠り所、つまり「オアシス」となっていく。

 この映画を見ていて思ったのが<見せ物>である。脳性麻痺という生態を見せるショー。この映画ってそういう姿勢を隠してないと思うのだ。とにかくその描き方はえげつないほどで、見た瞬間「うわ」というインパクトを伴う。人間は「外見」で判断する、だからいけない、などという手加減など微塵もなく、ただただ奇怪な「化け物」然とした姿のありのままを、ムン・ソリに演じさせる。そしてダメ男を見事に「創造」させてしまうソル・ギョング
 奇怪でありながらけっして不自然とはとられないほどの、感情表現すらこなしてしまう、主演の2人による極限の演技。いや、演技というより、そこに憑依し、「居る」のだと思わせるほどの、。そんな域まで研ぎ澄まされた技の応酬。
 ここには「見せ物」に相対する「覚悟」とはいかなるものか、というものの本質がある。

 そしてこの映画は、主演ふたりの器に乗っかって、その先の更なる高みへと突き進む。
 かつて例をみないほどのニンゲンの屑である「駄目将軍」と、その映画史上に類を見ないほどの醜悪な「もののけ姫」の交情。そんな2人の「奇怪」な図とそこにある純なる感情の落差。

 そして、一瞬訪れる、軽やかな幻想。恋の魔力ははかないが、だからこそ美しい。嗚呼。ここで落涙させられてしまう。つーか泣かずにおかりょうか!

 この映画は強靱な見世物<エクスプロイテーション>スピリットに支えられ、比類なき純度を有した「純愛映画」としての完成度も手に入れてしまった。世にも奇怪なる、奇跡的傑作。

「下妻物語」(中島哲也)

下妻物語【Blu-ray】

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  • 発売日: 2010/05/21
  • メディア: Blu-ray
 質問です。「『ごいけんむよう』って漢字でどう書きますか?」(挨拶)





 みんな衣服類をジャスコで済ませる茨城の田舎でフリフリロリータドレスを貫き、フランスのロココの心(軽薄万歳)を信奉し、それを貫くために、親父に嘘をついて金をまきあげるクソ女・桃子(深田恭子)。

 バイク乗りたかったけど、二輪免許も取れず、50ccの原チャリを暴走族仕様にして乗り回すバカヤンキー女・イチゴ(土屋アンナ)。



 そんな、クソ女、バカ女二人がこの映画の主人公。はっきり言って、お前らざっけんな、と思うが、それを見事に共感させ、青春友情ドラマという普遍的物語として昇華させた原作を、今までのフィルモグラフィーで最高傑作が「サッポロ黒ラベル」CM(山崎努とトヨエツが温泉卓球や雪合戦で対決するアレ)である中島哲也監督があらん限りの手練手管を駆使して映画化。

 なぜ、そんな凸凹コンビに共感できるかと言えば、彼女たちは自分のクソっぷり、バカっぷりを自覚しながら、それをあえて貫き通しているからだ。大人になることを拒否し、軽薄であることを貫く。尊敬も共感も自ら拒む、そんな「ロック」で「孤独」なエッジの利いた物語ゆえだろう。



 とにかく、前半表現こそめまぐるしいが、それぞれの話の流れがきちんと整理されているので、語り口は非常にスムーズ。アニメ・CM・ドキュメンタリー・ニュース・真剣十代しゃ●り場。ありとあらゆるその場限りのパロディをほぼ完璧にコピーし、物語を語る舞台装置としてきちんと使いこなす中島哲也のセンスは見事。普通、そういうパロディは安っぽくなりがちだが、中島監督の映像設計と編集のリズムのセンスは天才的で、見事に表現として完成されているのだ。監督は「完成された石井克人」という感じがする。彼が石井克人の大失敗作・「PARTY7」を撮ったら、逆に彼の最高傑作になっただろう。

 失敗続きの桃子の親父の挫折続きの人生、下妻という退屈な地域性が見事なギャグとして戯画化され、それが都会派個人主義なロリータ女・桃子との
堆肥
対比と、彼女の「オヤジ」と「地域」を蔑む目線と重なる、という表現の二重構造を生み出している面白さ。

 そして、その地域性から生まれた、都会では絶滅したはずの人種、「ヤンキー」を貫くもう一人の主人公・イチゴ。彼女は地域に根を張る暴走族に所属し、無論衣服はジャスコで揃える下妻的感性の最先端、バリバリの下妻女である。



 この映画は、下妻に見下してる女と、下妻どっぷりな女の友情物語でもある。正反対な世界を生きる異人種間ギャップコメディとしても優秀だ。

 そんなユニークな面白さに満ちた物語は、やがて普遍的な友情物語へと収斂される。その正統派の語り口でも、中島監督の演出力は揺るぎない盤石を見せる。



 「大きな幸せを前にすると人間は臆病になる。幸せをつかむことは不幸を耐えることより勇気がいるの。」



 かつてロリータに目覚める前の桃子が、実の母親の再婚へのアドバイスとして送った台詞である。しかし、それは実感のない理屈でしかなかった。しかし、大人になろうとするとき、それは避けては通れない現実である。

 この映画はそんなクソ女、バカ女にも現実を容赦なく突きつける。そして、彼女たちはそれに翻弄される。
 人生が大きく変わるわけでも、世界を大きく変えられるわけでもないけど、そんな現実に立ち向かっていく勇気の種を手に入れるのだ。



 それは、誰しもが必要とする「何か」だから、最後はきっと彼女たちが愛おしくなるのだと思う。ハードボイルド少女の青春バカコメディ映画の傑作と言えよう。…が!が!!

 これだけは言っておきたい。




この映画で一番偉いのは宮迫演じる「ダメ親父」である



 と!!てめえのようなクソ女を男で一つで育て上げるために、七転八倒するこの親父こそこの映画でもっとも偉い!!

 彼女がその結論に達しなかったのは、この映画唯一にして最大のキズである。