「千年女優」(今敏)(ばれ感想です。)
- 発売日: 2014/02/21
- メディア: Blu-ray
★★★★★★★★★★(5点満点で)
「千年女優」という映画の肝は、かつての名女優「老・千代子」ありきなのかもしれない。
今はもう引退し、地方の一軒家に隠棲する日本映画の黄金期を支えた伝説の女優。
その女優「藤原千代子」にドキュメンタリーのプロデューサーとカメラマンが、インタビューをしに屋敷に赴く。
プロデューサーはかつての千代子の大ファンであり、非常に心酔している。
お手伝いさんに部屋へ通され、待っている二人の前に、そのかつての名女優が現れる。
この「老・千代子」が実に素晴らしかった。この時点で自分は負けていたのかもしれない。
老いてはいるが枯れてはいない。
スターであったことの残滓が見て取れる、オーラ。
しかし、決して傲慢ではなく、非常に控えめな人柄。
時折少女のような笑顔を見せる。
座ったときに背筋がぴんと伸びていて、その座り方一つでこの女優の品の良さが分かる。
惚れた(早い)。
この時点からこの映画に説得力を感じていた。一人の老女優を目の前にして。
千代子という女優の人生に付き合う用意はできていたのかもしれない。
ハマる人とハマれない人との最初の分かれ道のような気がする。
さて、ちょっと閑話休題。
この映画を実写にすればいいのに・・・、という文をちらほら読む。
出来るもんならやって欲しいが、莫大な予算をかけて実写モノを再現するのは容易ではないし、しかも金をかけてこんな虚実入り交じった話がペイされるとは思えない。
その辺をクリアしたとしよう。
だが、たった一つ難点がある。
映画を見た後でこの映画が実写で撮れる可能性について考えていたときに、最大の難関が実は、この「老・千代子」の存在のように思えたのだ。彼女がいるから映画が締まる。
「少女・千代子」「中年・千代子」あたりなら代役が見つかりそうだが、「老千代子」の様な、可愛げがあり、少女の面影を残し、しかしカリスマ性も備える。
そんな存在がいるだろうか。かなり難しいように思う。
森光子あたりか?
しかしあの人はちょっと俺の想う千代子像と重ならない。大変失礼ないい方ではあるが、気品とカリスマ性の部分がやや足りない。
そうなると・・・・思いつくのは、吉永小百合くらい。
しかし、もう少し老けてもらうのを待つしかない。
結局この物語をアニメで制作するのは、最も現実的かつ、効果的だったと結論付けたい。
話を戻します。
インタビュー開始後、早くも幻想の世界が現れ、その世界の中に社長とカメラマンが千代子を追っていく構成となる。
彼を追って女優の道に入り、「あの人」を想う気持ちから女優としての才能を覚醒させる千代子。
この幻想を生み出している事への説得力も、結局のところ、「老・千代子」の存在感に尽きる。
かつての映画と同じシーンと彼女の生き方が、絶妙にリンクする幻想編。
少女時代、一目惚れし、またいつか会おうと決めた画家志望のアナーキスト=鍵の君。彼と不本意に別れたその日から、彼を追う彼女の鍵の君を追う人生の旅路は始まる。
やや、少女・千代子の演技がアニメ的オーバーアクトで、説得力がない、という指摘があるが、話自体はあくまで「老・千代子」のインタビューなので、引退した「老女優」の演技がオーバーアクトになってしまったとしても、不思議ではない。と思う。「老女優」のインタビュー場面が時折挿入されるのも、それが「あくまでもインタビュー」上での幻想だからに他ならない。
幻想はインタビューするプロデューサーと老・千代子の「共有世界」だ。だから、千代子の記憶が曖昧な部分はすべてプロデューサーの映画的記憶で補完しているので、同じ俳優が別の役で何度も登場する。
手塚治虫のスターシステムのような、面白さだ。
そして突っ込みを最低限、入れるためにカメラマンに「ツッコミ属性」を付加させて現実感をもたらす効果を狙った。
観客は最初、彼に誘導され、そしてそこから、徐々にプロデューサーか千代子に意識を委ねていくのが正しい見方だと思う。
この幻想部分の編集は見事の一言に尽きる。
息を付かせる間もなく見事に場面転換して、観ている者の度肝を抜く。そのタイミングは素晴らしい。
映画である以上、きちんと幻想から引き戻す部分を作る。幻想モノ(デヴィッド・リンチとか)のような地に足つかない感覚がそれほどないのは、千代子は走り続けているからだ。
人生を、恋路を、女優道を。
走るという行為を一本の線にしたのは上手い。これでクライマックスに加速がつくことになる。
ところで、女優として大成していきながらも彼女は幸せには行き着かない。千代子にとって、あくまで女優は「鍵の君」に会うための「手段」に過ぎないからである。
それはこの映画で徹底されて語られているのだが、それを指摘するレビューは意外と少ない。彼女にとっては望まぬ、苦界なのである。幻想編で芸者に身をやつすシーンがあるが、まさにそれを象徴していて、深くため息をつかんばかりに感心した。
そして 映画という幻想に依って戦国時代から江戸、明治大正、そして昭和をすぎていく。
だが彼女は彼に行き着けない。
そして時代が彼女の生きた時代に追いついたときに、プロデューサーと千代子の意外な関係が明らかになる。
そこから、話はより信憑性を増す展開に変わっていく。
なぜ幻想が二人の共有世界として存在したのか。
その謎がこれですっきりと解かれる。
そしてプロデューサーが彼女の人生を狂わせた初恋の顛末の鍵を握ることになる。
さて、それ以降、彼女の人生の歩みが語られつつ、彼女の追い続けていた鍵の君への思いの丈をぶつけるようなクライマックス。
様々な「千代子」が「あの人」へ向かっていく姿を繋げる編集は圧巻!
そして、千代子は走り続けた生涯を終える。
この映画の凄いところはプロデューサーと大女優の間に「共有幻想」の成立させた点にあり、そこから吹き出す千代子の「鍵の君」への思い、女優としての人生、狂わされた人生、プロデューサーの女優の彼女への入れ込みぶりとその思い、映画の素養、知識、それらがセリフを介するのではなく、すべて画で表現しながら、見事に整合性をつけた、その手腕の見事さにある。
しかも上映時間、わずか87分!!
これをセンス・オブ・ワンダーと言わずしてなんとするんだ!!
と思っていたので、世間の冷たいレビューは非常にさみしかった。
「女優の幻想」に惑わされる二人の男の話、と思いこんでいる人がいるが、それは違う。聞き手側の思惑もちらほらと混じって、共有しているからこそ、プロデューサーの勝手な「映画への闖入」も許容されているのだ。
そこの認識が出来ないとこの映画を理解しているとは言えないだろう。
その辺、理解してくれる人がもっとたくさんいるだろう、と思っていたので、つまるつまらないを超えて凄い、ということすら理解できない人も中にはいて、愕然とした。
見りゃわかる、と思ってたんだけどなー。
さて。
いろんな人のレビューを見てきて、共通して物議を醸したものがある。 ラストの千代子のセリフである。
「だって、私、あの人を追いかけている私が好きなんだもの」
これが異様に不評だ。このセリフが世間的な評価を下げていると思うと寂しい限り。
確かに、センスオブワンダーのあとのこのセリフは無粋の極みとも思う。
だがこのセリフの意味について考えて見たときに、「今までのはすべてホラでした」というのとはちょっと違う何かを感じていたのである。自分は。
今まで取材を拒んできた彼女がなぜ、インタビューを受け、一代記を語る気になったのか。
多分、彼女は女優を引退して「鍵の君」からの呪縛から逃れた生活を送る彼女が行き着いた結論が、それだったのではあるまいか。
狂気にも似た純粋な恋に狂わされてきた人生を振り返ったとき、残ったのは女優としての過去を持つ自分しかいない。だからこそ、それをとどめおく機会を選んだのでは無いかと。
あまりに唐突で説明不足なセリフではあるが、この一言で評価を下げたくないほど、自分はこの映画が好きだ。
だって。
俺、「あの人」を追いかけている藤原千代子が好きなんだもの。